心のバリケードを片づけるとき(片づけ祭り④)
こんまり先生の本に感銘を受けて始めた片づけ祭り。これまでの備忘録で、衣類、書類、本の片づけまでの流れを書き残しました。
残すは、小物類と思い出の品。昨日は小物を中心に片づけました。
小物を引き出しや箱から取り出して床に広げる
→ひとつひとつ手に取って、残すか手放すかを決める
→残すモノは紙袋に入れてとりあえず保管する(収納法を考えるのは最後だそうなので)
→手放すモノを、燃えるゴミ、不燃ゴミ、その他プラ、リサイクルプラ等に分けて袋に入れていく
だいたいこんな流れで作業しました。
さよならを決めたモノの量、不燃ゴミが1袋、その他プラが2袋半。
いままでなんとなく取っておいたモノ、狭い部屋の色んな所にねじこんでいたんだな。
可愛いなと思ったヘアアクセ、もう使っていない財布、奥にしまっていたCD、昔のスマホケース。
なんとなく取っておいただけだから、使い道も分からない。結局使ってない。
でも捨てるの申し訳ない、もったいない、捨てると思うと心が痛む。
もう同じことの繰り返しをしないために、捨てる痛みを心に刻みつけています。
今まで私は何度も部屋の大片づけをしてきました。そして、ゴミの分別で毎度つまずいていました。
要らないモノを袋に放り込んで、集中力が切れたら一旦終了。
→勢いで片づけたので、休憩して勢いがなくなったら片づけのやる気もなくなる。
→ゴミの分別なんて細々した作業、やる気ないのにできない。
→結果、長らく未分別のゴミ袋を放置する。後にしぶしぶ処理する。
こんなモノとの向き合い方では、リバウンドしてもおかしくないな。
今回に関しては、分別が苦ではありません。ひとつひとつ手に取り、ありがとうの気持ちを伝えるときに、どの袋に入れたら良いかも分かるからです。
感謝して手放すことは、私の分別の後回し癖を直してくれました。
今日は勉強机の正面に取り付けられた本棚スペースを取り外しました。
あれこれドライバーでネジを回していたら、無事に分離に成功しました。
今まであった棚がぽっかりなくなって、物寂しい感じがありますが、
棚があることで勉強机のスペースをフル活用できないのが不便だったり、
本棚の仕切りが低いので大きな本を立てようとすると格好が悪くなったり、
こんな使いづらさを感じていたので、思い切って取り外した次第です。
収納スペースを減らすなんて、今まで当たり前にあったモノをなくすなんて、自分でやっておきながら心はざわついています。
片づけを通して、なんとなくあるモノと向き合い、今の自分に必要なモノは何かを考え、自分の必要とするモノの量がそんなに多くは無いことを知りました。そして、この決断に至りました。
がらんとした机は、がらんとした私の心のようです。
衣類も本も書類も小物も、私が部屋に押し込んでいたモノの相当の割合を捨てました。
こんまり先生の本には、片づけをして部屋に残ったモノが、今の自分に必要なモノや自分の本当の願いを教えてくれることがあると書かれていました。
私の願いはなんだろう。
モノが残らないのです。
過去助けてもらったモノ、過去ときめいたモノはあったけど、今の自分が心動かされ必要とするモノが、ほとんどないのです。
生活に必要なモノはそろっています。ただ、自分の将来の夢や今やりたいことが表れたモノが見当たらない。
心をモノで埋めていたんだな。
自分は今、夢もやりたいこともないんだ。
勉強系の本の買いだめは好奇心の表れでもあるけれど、学生時代から続く「勉強できる私、勉強する私が私のアイデンティティー」という思い込みに依るものが大きかったんじゃないか。
片づけで部屋のモノがなくなるのと同じ早さで、自分の心がすっからかんに近づいていく。
これまで一時の勢いで買い集めたモノ達で、バリケードを作って自分を守ろうとしてたのかな。
高校辞めて、どうにか通信高校卒業させてもらって、無職になって。
「でもわたしはやりたいことあるし、勉強してるから大丈夫、大丈夫…」
こんな風に自己防衛してたんじゃないかな。
そしてバリケード作りすぎて、本当にしたいことが一層わからなくなってるのかな。
まだ予測の範囲で、実のところは分かりません。
もしモノで心を守ろうとしていたのなら、まずバリケードを片づける。
そして、なんにもない自分と向き合う。
夢も希望も、もっと先の話。
なんにもなくなって怯えた私に、「いいよ。大丈夫よ。」と声をかけてあげられるように、モノを片づけます。